錬金術講座 継続するコトになりました。
T: お前に死なれては困るんだ。
B: ハッ?
T: おまえに死なれんたんじゃ、俺のメンツはまる潰れだ。
B: ハッ?
T:
殉死の覚悟は出来てるかも知れんが、
殉教の覚悟はまだ出来ていない。
B: はい。
T: お前は相当、禅には通じていると認めてはいるが、
武士道とかいう、悪しき美風、切腹の観念に染まっている。
切腹=殉死ほど無責任な行為はない。
B: ハイッ!
T: 殉死などされた日には、俺はたまったもんじゃない!
いい迷惑だっ!
B: ハッ!
T: 名を惜しめ!もっとわが身をいたわれ!
B: ハァ・・・
T: はじめに、おまえが俺の門を叩いたトキ、
もともと、内弟子など取る気などなかった俺は、
お前と誕生日が同じコトに何か啓示のようなモノを感じて、
たった一人のココロの友、内弟子と定めたのだ。
B: ハイッ!
T: 名を惜しめ!もっと身をいたわれ!
それが、人をして、名を惜しませ、身をいたわるコトになるんだ!
B: グフッ!
T: はじめに申したとおり、宗教の本質は、その
行(ぎょう)にある。
そして、その行とは
見性と
見神に尽きている。
見性とは、人間の自然性を見極めるコト。つまり、
人性を体得するコト。
見神とは、人間は単なる自然的存在ではなく、
神性を帯びているコト。
超自然的力を感得するコトなんだっ!
B: ははっ!
T: おまえが、この
錬金術講座を啓くに至るまでの経緯を
おれは、誰よりも理解しているつもりだ。
君が、ほとんど
聖書の預言に依らずに、
禅的直観だけで、
神のコトバに逢着出来たコトには、
ただただ敬意を表するのみである。
「すごいっ!」の一言に尽きる。
君のような学究肌の人間が禅にハマると、
虚無主義に陥るか、歴史的殉死に至るケースが多いのだが、
まさか、
神のコトバに至るとは・・・
まことに驚きだ。
B: ありがとうございます。
T: ところで、来年の二人の活動についてだが・・・
これまで、お互いに
信仰の立場にあるコトは伏してきたのだが、
君も感じているとおり、
われわれはきわめて
危機的状況に立たされているコトだけは確かだ。
B: はい。
T: そこで、提案なのだが・・・
君にはこれまで続けてきた
<コトバの錬金術講座>を完結させて欲しい。
君には、あまり自覚がないのかも知れないが、
これは、初期正覚から50年、釈迦最晩年の真正覚(
サトリ)に、
ヒトツの枠組み=
カタチを与えるかも知れないのだ。
B: ウッ!
T: それに、短期的には、在俗でも、やるべきコトは山ほどあるし、
読者もそれを望むだろう。
われわれ日本人には、
聖書の文脈より、
仏法の文脈のほうが、
馴染みやすいという理由もある。
ただ、人類の
救済(スクヒ)という観点からすると、
聖書に基づいた信仰(見神)は不可欠だ。
殊に、聖書の預言の研究は、俺たち、まだ端緒についたばかりでしかない。
急を要する課題ではあるのだが、腰を据えてかからないと、
取り返しのつかないミスを冒しかねない。
そこで、俺の方は預言の理解に力を注ぎ、
正しい信仰(
見神)のあり方を提示していきたいと考えている。
君には
見性のあり方を示してほしいというコトだ。
言わば、
二人三脚で切磋琢磨しようというわけだ。
お互い、創造的な一年になると思うが、どうかね。
B: かしこまりました。
以上が、
錬金術講座を継続するコトになった、師匠(T)とのやりとりです。
とは言っても、およそやり取りにはなっていませんが・・・クフフ
クリスマスプレセントの第二弾、というか、これが第一弾というべきか?
師匠のブログをご紹介しておきます。
Anchor Tacot Jeu